歩道橋理論

Philosophy

バナナと言ったら黄色、黄色と言ったら檸檬
檸檬と言ったら蛇足かMiDです。

私は普段、何かしら1つの事象に対して
突飛にあるいは深く解釈することで
自身の考えを豊かにすることで快感を得ます。

しかし、何かしら2つ以上の事象を絡めたり
事象から事象をつなげて、体系的に物事を考えるのは
あまりやったことがなく、次のステップかと考えております。

私の根底にあるもの、きっかけは友人の
「歩道橋ってすごいよね。どこかの川に橋があって
道路にも橋をかけちゃえば信号待たなくていい、って
考えた人がきっといたんだよ。」という言葉でした。

私もこんな考え方を是非してみたいものです。

今回は個人的な訓練の回。
今朝の出来事から立ち止まらずに連想ゲームをします。


今朝、はんじょうの切り抜きを見ていたところ、
こんなことを言っていました。

オレは飲んでなかったけど
高校生でお酒飲むのとかってなんでダメなんだろうね。
オレはもちろん飲んでないけど、
18歳も20歳も身体そんなに変わらなくね?
いや、オレは飲んでないけど。

一部脚色です。が、彼はきっと飲んでいます。

それはさておき、日本でお酒は20歳からですよね。
これはアルコールの分解機能が子供は十分に働かず、
健康や心に悪影響があるから、と言われています。

しかし、その理論だとはんじょうさんの言うように
18歳では不十分で20歳ならば良い、と言う理論は
あまり納得がいかないなと思うわけです。

自己責任だから、とかの方がまだ納得できます。
それゆえ、選挙権が18歳になった時に、酒もタバコも良くない?
と言う声が一時的に大きくなりましたよね。

20歳の誕生日と、その前日の19歳最後の日で
劇的に身体が変わるわけではないでしょう。
しかし、19歳最後の日にお酒を飲むのは法律違反です。

だから、お酒は20歳から、
その理由は健康と心を懸念して
と言うのは実は成立していないわけです。

個人的にはこの間にワンクッションがあり、
それが公表されていないからだと思うんです。

それは「あなたの感想」

厳密にはアルコールに詳しいであろう
昔のそれなりに偉い人の感想でしょうか。

おそらく「アルコールが未成年の心身に及ぼす影響」
なんてタイトルの研究をしたのでしょう。
そして、およそ20歳くらいになると
十分にアルコール分解機能が成長するとわかった。

しかし、アルコール分解機能が数値で表せるとして
この数値以上なら大丈夫、この数値以下ならダメ
というのはハイパーパラメータです。

つまり流れとしては
お酒は20歳になってから、なぜなら
健康被害があるから。ではなく、

お酒は20歳になってから、なぜなら
健康被害があると判断したから、です。

しかし、20歳以上になった理由、
誰がどんな研究をして、と言ったことを
日本人はあまり知りません。

私が本日10minくらいかけて
年齢とアルコール分解酵素の関係を調べてもヒットしません。
そんなグラフ簡単に出てきていいと思うんですが。

これは、日本人の性質が原因と考えます。

日本人は自分の感想を一般化した状態で
世に出すことを好み、それを美徳とする節があります。

要は正当化の文化です。

例えば、SNSやYoutubeのコメント欄で
なんか理由つけて人を叩くじゃないですか。
「これはこうだから正しくない」みたいな。
「オレはお前が嫌い」は少ないんですよ。

だから、お酒の件も誰かがそう思ったから決まった
では納得するはずもなく、それが正しいことなんだ
という情報が国民を納得させるのです。

そこに確かな裏付け、データがなかったとしても。

ではなぜそんな文化が育ったのか。
これは非常にシンプルでしょう。
とはいえ卵が先か鶏が先か、ですが。

スティーブ・ジョブズが生まれないからです。

iPhone作ったくらいすごいんだから
なんか言ってることよくわかんねぇけど正しいんだろう
というカリスマ性のある人物が、日本にはいません。

日本の政治家がなんかそれっぽいこと言っても
基本的に国民は懐疑的じゃないですか。
要はカリスマ性がないんです。

とはいえカリスマ性の高い、ひろゆきみてぇなやつが
トップになればきっと日本の風向きがおかしくなります。

データの確認や事実の検証をできないくせに
日本人は「確らしさ」を追求するんですよね。
愚かなことです。

しかし私は、だからと言って日本の文化が
嫌いなわけではありません。
俳句とか短歌とか、特別好きではありませんが、
文章を芸術として捉える国って、日本以外知りません。

食の見た目へのこだわりやマナーとか
しょうもなと思う反面、きっと根強い
美意識や感性のように思います。

これをなんの意図もなく消費するのは非常に勿体無い。

となると「論理」「感情」は切り分けて考えるべき
なのではないかと思うわけです。
そしてそれぞれを昇華していく。

本来私は論理と感情は切り離せないものだと
考えるのですが、あえて今回は逆張りの目線で
これを捉えてみましょう。

例えば食事のマナーって、まさに感想です。
「昔の人がこうだった」「こう言った由来がある」
ですから、論理もクソもありません。

政治は論理でしょう。
「こういったデータがある」「試算が出ている」
ですから、感想が入る方が問題です。

これらをごっちゃにしてはならない。

食事のマナーで「それ意味あります?」
「こうした方が良くないっすか?」とか言うのは
無粋だと考える、と言うことです。

政治で「データはこうだけどオレはこう思う」
「私の時代はこうだった!」黙っていて下さい。

それぞれ情緒を重んじ感情に訴えるべきものか
事実を重んじ論理的に積み上げるべきものか、
これをはっきり切り分け、それぞれ訓練するのはどうでしょうか。

もちろんそれぞれ得意不得意はあるので、
義務教育を終えたタイミング、つまり高校あたりで
文理分かれる感じで論理/非論理で分かれるとか。

こうすると、非論理の仕事ほぼねぇじゃん!進まねぇよ!
って声が聞こえてきますが、それで良いのです。
追い詰められた非論理は新たに仕事を作るでしょう。

そうなると、非論理の文化がより発展します。
ただでさえ「アニメ」「カラオケ」「寿司」「侍」は
最高の文化として広まってるんです。
伸び代は確実にありますよね。

ただ、これらが伸びるのは海外に競合が
そこまで多くないから。Marvelくらいじゃないですか?

むしろそうなってくると、論理側が割を食う。
だってGAFAMだけじゃなく、東南アジアやら
中国やら、IT強すぎて現実的に勝てませんからね。

そうすると、非論理の産業を支える論理産業が増加するのか
あるいは論理的な新たな産業が日本から誕生するのか。
少なくともそのまま滅びることはないと推測します。

ある種、現在の日本の文理論争を
論理/非論理論争として拡大し、良い影響を望んで
あえて競争させるような構図です。

これを実現したいと思った私は
さて総理大臣にでもなろうと思うのですが
私は喋りが苦手なので、そんなに賢くなくても良いが
喋りはめっちゃ上手い人と、私自身賢いわけではないので
論理に強い仲間がいたら良いなと思うのです。

と、ここまで書いていて
なんかおにやみたいだなと思ったのでやめます。

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